辻原登『抱擁』

 二.・二六事件の翌年、「わたし」は前田侯爵邸の小間使として奉公することになった。5歳になる令嬢の緑子は人形のようにかわいらしく、いたずら好き。だが、突然不審な行動を見せることがあった。見えない誰かを見つめたり、話しかけたりするのだ。そのことに気付いてしまった「わたし」は・・・


 中編、といってしまえる程度の長さの物語。前田侯爵邸という洋館を舞台としているだけで何やら幻想的な雰囲気を出しているのですが、そこに緑子の不審な行動、さらには「わたし」の前任者ゆきのの顛末なども絡んで、その雰囲気をより濃くしています。
 「わたし」が緑子を思う気持ちには並々ならぬものがあり、それが「わたし」と読者を実際の出来事なのかそれとも妄想なのか判断できない世界へと誘います。それは平穏だった屋敷を少しずつ覆っていく暗雲のよう。日中戦争へと突き進んでいく日本の世相とも重なって見えるというのは考えすぎでしょうか。


 重なるといえば、「わたし」と二・二六事件の青年将校たちとの重なりも圧巻でした。「君側の奸」を排除し昭和維新を成し遂げなければならないと考える青年将校。緑子にポゼス(憑依)した幽霊を取り除こうとする「わたし」。その心のリンクと時代性の組み合わせが、何とも言えない緊迫感を出しています。


 はたして、どこまでが現実でどこからが妄想なのか。そもそも妄想があるのか。ただでさえ幻想的でその境界がわからない物語でしたが、最終盤で「わたし」と読者はさらに混乱の渦に巻き込まれます。あのささやきは何を意味しているのでしょうか。
 幻想的で美しく、そしてなんとも魅惑的な物語。静かに語る「わたし」が、あなたを駒場コートへと誘います。

2010年3月8日読了 【8点】にほんブログ村 本ブログへ
抱擁
抱擁辻原登
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