小説家はレイアウトまで責任を持て! - 京極夏彦が語るヒットの神髄
「小説家はレイアウトまで責任を持て! - 京極夏彦が語るヒットの神髄」(マイコミジャーナル)
http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/07/09/kyogoku/index.html
この記事は8日に京極夏彦さんが行った講演についてのレポートです。
京極氏は、文章を書くことだけが小説家の仕事ではなく、文章の改行や改ページ、字種、書体の選定まで含めて、読者に「観せる」ことが小説家の仕事だと考えている。そのため、エンドユーザーが読む本と同じレイアウトでそのまま作品を執筆できる「InDesign」を早くから取り入れ、執筆活動を行っている。
確かにそのとおりで、小説家として読者からの見た目を意識するということは重要でしょう。京極さんがこの点を非常に意識され、ページを跨がない文章にしていることなどは有名です。僕も随分以前ですがその確認のためだけに立ち読みしたことがあります*1。
また、京極さんは装丁家としても活動していて、数々の作品を手がけています。京極堂シリーズに新書版、文庫版だけでなく愛蔵版、分冊文庫版まであることもこだわりの一端かもしれません。あるいは、ご自身の和服を中心とした服装も「観せる」ことへの意識が関係しているのかもしれません。
そこまでのこだわりが必要かどうか定かではありませんが、「観せる」ことにある程度こだわりを持つ必要があるのは確かでしょう。
文章でいえば、漢字かな文字の並び具合や句読点の位置など、読者にとって読みやすく世界に引き込みやすいものにすることは重要でしょう。装丁で作品のイメージを作ることもあるでしょう。ライトノベルなら、イラストはイメージとして大きな意味を持ちます。覆面作家が姿を隠し続けることも、隠すことで「観せる」ことのひとつといえます。。
こういったものを充分に活用して、ひとつの作品世界を構築することはこれからの小説家にとって重要なことでしょう。たとえ京極さんのようにご自身でできなくても信頼できる誰かに託すことぐらいは必要かと。
もっとも、京極さん以外の方がどのようにしているのかは、僕はまったく知りません。その程度は当然のことなのかも。
折原一さんの『倒錯の帰結 [ 折原一 ]』や泡坂妻夫さんの『しあわせの書 [ 泡坂妻夫 ]』『生者と死者』のような作品は、ある意味「観せる」ことを意識した作品でしょう。いや、この場合「魅せる」の方がピッタリか。
そういえば、ブロガーにとっても自分のブログを見てもらうには参考になるかもしれませんね。僕自身こういうことはほとんど意識していませんが。
この講演、原稿とそのやり取りの話ばかりだなあと思ったら、「Adobe InDesign」のユーザーのためのイベント「InDesignコンファレンス2008 東京」での講演でした。この内容、当然ですね。
「京極夏彦が出版業界の「構造改革」を促す」(アドビ公式サイト)
http://www.adobe.com/jp/print/features/kyogoku/
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*1:京極作品は未読です